元気なうちに行きたいところはいけるところまで行き、やりたいことは何でも挑戦しようと決めました。死ぬときに後悔しないように。
ゴルフの飛距離が落ちたので始めた筋トレにはまり、足に筋肉がついたので登山をやり、登山バスの中で勧められた自転車にもはまり、細切れ日本一周を考えています。
定年を機にハローワークで見つけたWEB制作のクラスでホームページを自分で制作することになりました。いままで撮りためた写真やビデオを見やすく整理して、孫にじいちゃんがどんな人か、わかってもらえたらうれしいです。
【初めてのサイクリングは幼稚園のとき】三輪車から補助輪付きの14インチ自転車に乗り換えたのが、幼稚園の年中組。ある日なぜか一人で郡中のおばちゃんに会いたいと思い、ひとりで補助輪付きの自転車で松山市中心から12km離れた伊予市郡中までサイクリングしました。
道は父親が運転する車で何回か通っており、おぼろげながら覚えていました。3時間ぐらい走って、おばちゃんに会うとびっくりして母に電話され、すぐに父が迎えに来て叱られたことを覚えています。
【中学・高校時代】中学・高校の間は自転車通学でした。往復6㎞だったのが、高校からは校舎が山の上に移転し往復9kmになりました。中学3年で松山から琴平まで1泊で往復240km、高校一年の時は呉から岩国経由萩まで2泊で400km走ったことがあります。
【北京大学】1984年当時は、自転車が貴重な移動手段であったこともあり、前任者の鳳凰号を大事に譲り受けで、市内と大学の間や郊外の頤和園まで走っていました。
【上海駐在】手ごろなシティバイクを購入し乗り回そうとしていたところ、すぐに盗難にあい、自転車はあきらめました。
【61才でグラベルバイクを購入】ゴルフの飛距離が落ちたので始めた筋トレにはまり、足に筋肉がついたので、登山をやり、登山バスで隣に座った人から勧められて、グラベルバイクを購入。いまはバイクにはまっています。
2019年に台湾一周を、2021年に四国一周をやりました。2022年に紀伊半島一周を達成しました。これで太平洋岸自転車道を細切れで走破しました。
棺桶リスト挑戦者とは?
ジャックニコルソン、モーガン・フリーマン主演の映画“Bucket List”「最高の人生の見つけ方」(2007)の中で余命6か月を宣告された二人が死ぬまでにやりたいことを列挙したのが棺桶リスト。これを実行する中で友情を深めていくストーリーです。で棺桶リストに挑戦するということで棺桶リスト挑戦者としました。
年齢・性別は?
67才・男性
棺桶リストは?
現在のところ、細切れ日本一周がメインです。台湾以外の海外のサイクリングも夢見ています。とりあえず、ニュージーランドやカナダ、イギリスなど国別に挑戦しようかなと思っています。道志みちで出会ったアイスランドYOUに紹介されて、EURO VELOにも興味が出てきました。
現在の仕事は?
65才で定年退職したところ。WEBプログラミング言語の学校に通っています。これは本当に楽しいです。パソコンも新しくしました。
趣味は?
現在のマイブームは自転車です。
その前は登山でした。関東一円の比較的優しい低い山に登り、2018年に富士山に登りました。が、下りで膝が痛いのに耐えられず、自転車へ。
その前は、筋トレにはまっていて、最近はコロナで中止したジム通いも再開しました。
その前はゴルフにはまっていて、中国駐在中、嘉定のゴルフ場の理事長杯で優勝したことも。2020年2月9日湘南カントリー4番ホール平成グリーンでホールインワンを達成。
その前は、ジョギングにはまっていて、雑誌「ランナーズ」の関東周辺のマラソンによくエントリーして記念Tシャツを集めていました。
その前は香港駐在から始めた「ドラゴンボート」にはまっていました。香港から帰国してメンバーの一人として東京ドラゴンボートを創設しました。
その前は銀行のボート部でボートを漕ぎ、ボート大会を開催したり、遠漕で霞ヶ浦まで漕いだりしていました。
高校時代はバレーボールをやり、中学校では卓球部にいました。小学校ではプラモデルをよく作っていました。
番町小学校合唱部で県大会の2位になったこともあります。合唱は銀行の合唱団でいまも歌っています。
コロナ前の2年ぐらいは乗馬にもトライして速歩ぐらいはできるようになりました。
カメラもいつも何か持っていて、写真を撮りためています。旅行も好きでコロナ前はよく海外パック旅行に行っていました。
生まれは?
愛媛県松山市 中華料理店の次男として生まれました。そのため、大学の第二外国語は中国語を選びました。このため、中国に関係することになりました。
学歴は?
【幼稚園】番町幼稚園
【小学校】松山市立番町小学校
【中学・高校】私立愛光学園高校
【大学】一橋大学法学部
【留学】北京大学中文科(進習生)
職務経歴は?
大学卒業後、都市銀行に就職、国内支店勤務後、システム部でCOBOLを習得、システム開発に従事。>
その後北京大学に留学の機会を得て、中国勤務に。香港、深圳、上海、台北に駐在し、システム管理や内部管理を担当。大陸、香港、台湾と中華三昧。
銀行合併後は上海で働き、システム切替、支店開設、現地法人化プロジェクトに従事。その後はシステム・事務指導、システム監査に従事。65才で定年退職。